大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和41年(ネ)1936号 判決

控訴人 ヴィクトル・ア・ポロセウイチ

右訴訟代理人弁護士 石田亨

被控訴人 石塚吉二郎

右訴訟代理人 山下義則

主文

原判決を次のとおり変更する。

被控訴人は控訴人に対し金五万円及びこれに対する昭和三七年五月八日から支払済まで年五分の割合の金員を支払うべし。

控訴人のその余の請求を棄却する。

訴訟費用は第一、二審を通じてこれを二〇分し、その一を被控訴人の負担、その余を控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は、「原判決を取消す。被控訴人は控訴人に対し金三七〇万円およびこれに対する昭和三七年五月八日から支払済に至るまで年五分の割合の金員を支払うべし。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴代理人は、「控訴棄却」の判決を求めた。

≪以下事実省略≫

理由

(一)  控訴人は白系ロシア人であって、昭和一七年頃樺太大泊町に居住していたところ、同年初め頃軍機保護法違反の容疑で逮捕され大泊警察署に留置されたこと、当時被控訴人は大泊警察署勤務の警部補であったことは当事者間に争がない。

(二)  ≪証拠省略≫を綜合すれば次の事実が認められる。

「(1) 控訴人が前記容疑により樺太庁警察部の警察官に逮捕されて大泊警察署に留置されたのは昭和一七年一月ないし二月頃のことであって、以来右被疑事件の取調は樺太庁警察部がこれにあたり同庁勤務の司法警察官であった谷森警部補が主任としてこれを担当したが、同警察部の命により当時大泊警察署水上警部補派出所勤務兼同署特高課主任であった被控訴人は右被疑事件の取調の補助をした。同事件の捜査は控訴人逮捕留置前から行われていたが、その逮捕留置後は同年四月十五、六日頃までの間に控訴人に対する直接の取調が行われたものであって、控訴人に対する谷森警部補の取調においては同警部補の部下である斎藤正逸巡査らが立会ってその補助をし、被控訴人が取調べる際には被控訴人の部下である斎藤善也巡査が立会った。右取調べにおいて(イ)、同年四月三日午后六、七時頃から翌朝まで控訴人を留置場から出し調室において谷森警部補が取調べを行うに際し、同警部補の部下である氏名不詳の刑事二名が竹刀で控訴人の背中を叩き、谷森警部補みずからは手で控訴人の頭部を殴った(この日被控訴人はその調室に顔を出したことはあるが、手を下したことはない。)。(ロ)、同年四月四日の取調べにおいて谷森警部補が控訴人を叩いた(この日も被控訴人は調室に顔を出したことはあるが手を下したことはない。)。(ハ)、同年四月五日から八日までも取調べは行われたが、控訴人に対し特段の暴行が行われることはなかった。(ニ)、同月九日の取調べに際しては、被控訴人はその調室に出たり入ったりしていたが、氏名不詳の刑事二名が床に坐らせられた控訴人の両手を上に挙げさせ、これが下ると腕のひぢを靴で蹴飛ばして挙手を継続させたので、控訴人は苦痛のあまり両手で髪の毛を掴んで挙手を続け深更に及んだ。(ホ)、同年四月一〇日午后七時半頃から同署二階の調室において谷森警部補から取調べを受けた際、控訴人は同警部補作成の調書に、相違なき旨の署名を拒絶したところ、同警部補から床に置いた角棒の上に坐らせられたうえ、前記斎藤正逸刑事が控訴人の膝を足で踏みつけた。(ヘ)、同年四月一五日夜の取調べに際し、谷森警部補及び被控訴人らの捜査官は控訴人に対する取調の調書に強いてその署名を求めたが、控訴人はその記載が虚偽であるとして署名を拒んだところ、被控訴人は書籍で控訴人の頭を殴り、文鎮で控訴人の手や指輪を繰返し何回も叩く暴行を加え、また、椅子の後足を両手で頭上に支えさせた上に書籍を積みあげて保持させ、他方谷森警部補は控訴人の頭を殴打し、水の入ったバケツを頭上に支えさせ、水をこぼすと殴打し、控訴人が倒れるまでこれを続けさせ、またタバコの火を控訴人の手に押しつけたほか、右谷森警部補の部下斎藤正逸刑事が床に角棒を置いて控訴人をしてその上に坐らせたり、その頭を殴打したほか、控訴人の膝の内側にも角棒を挿入して苦痛を与え、それぞれ執拗に署名を求めるので、控訴人は苦痛のあまり、ついに翌一六日未明前記調書の記載が自己の真実の供述に反しないことを認める趣旨の署名をした。

(2) その後同警部補は控訴人に対する取調その他の捜査を終り、同被疑事件を検察庁に送致したので、同事件は身柄拘束のまま起訴され、控訴人は右事件につき有罪の判決を宣言され、判決確定後引続いて刑の執行を受け、終戦後の昭和二〇年九月四日釈放されるまで刑務所に拘禁された。

(3) 控訴人は右取調べ当時から被控訴人の姓が『石塚』であることは知っていたものの、名を知らなかったが、釈放されて後、前記被疑事件の捜査に当って控訴人に暴行を加えた警察官らを探し求め、八方手を尽して調査し、昭和二三年頃に至り被控訴人が秋田県内に居るらしいことを、また同二六年頃被控訴人の名が『吉二郎』なることを知るに至り、他方札幌法務局人権擁護部に対し被控訴人の所在を照会した結果同人権擁護部から同三六年一一月八日付書面で、被控訴人は、戦後『秋田県本荘市中堅町二五番地に居住していたが、後に東京に移転した(東京の移転先は不明)』旨の通知を受けたので、更に調査の結果、その東京における住所を知ることが出来たので、被控訴人の右不法行為責任を追求するため本訴を提起するに至った。」

≪証拠判断省略≫

(三)  なお、≪証拠省略≫によれば、控訴人に対する前記谷森警部補の取調べに際しては前記斎藤正逸巡査を含む自分の部下の警察官を立合わせ、取調べに関して右部下の警察官に命令することはあっても、被控訴人の部下警察官を立会わせたり取調に関しこれらに命令したりしたことはなく、また被控訴人の取調べに際してはその部下でない警察官に立会をさせたり、これに命令をしたりしたことはなかったこと及び谷森警部補と被控訴人が控訴人の取調べに関し相互に命令するようなことはなかったことが認められ、斎藤正逸巡査が控訴人を取調べるに際して暴行を行ったことは当審における同人の証言により明認できるところである。

(四)  以上(一)ないし(三)の事実を考え合わせれば、前掲((二)参照)四月三日、四日、九日、一〇日の取調べについては、被控訴人が自ら手を下して控訴人に対し暴行したこと、あるいは被控訴人が控訴人に対する暴行を命じたり、またはこれに加担したことを認めるに足りない。しかし四月一五日(前掲(二)の(ヘ)参照)の夜から翌一六日の未明に亘る取調べに際して、被控訴人が書籍で控訴人の頭を殴り、文鎮で、その手や指輪を繰返し何回もたたいたり、控訴人をして椅子の後足を両手で頭上に支えさせた上に書籍を積みあげて保持させる等の方法により苦痛を与える暴行をみずからまたは部下に命じて行ったことは明らかであって、この行為は、控訴人の逮捕拘禁が適法手続によったかどうかに拘わりなく、被疑事件の取調べのために必要且つ正当な公務上の行為の範囲を全く逸脱した不法行為であるのみならず、被控訴人の右不法行為により控訴人は精神上の損害を受けたものと認むべきことは論をまたない。

(五)  次に、控訴人は本訴において、右不法行為にもとづき蒙った財産上の損害の賠償を求めるけれども、その主張の財産上の損害とは、控訴人が当時所有していた養狐場の施設、狐等を失い、また当時北海道拓殖銀行にしてあった金二万円の銀行預金の返還を受けられなくなった損害であるところ、前者は直接には昭和一八年ないし昭和一九年頃白系ロシア人に対し樺太庁から各その住居を立退き一定の収容場所に移転すべき移転命令が出たことの結果であり、後者は同じく今次戦争における日本敗戦の結果であることが、原審における控訴本人の供述から推認できるのであって、被控訴人の前記不法行為と法律上相当因果関係があるものと認めるに足りる十分な証拠がないから、右財産的損害賠償の請求は認容するわけにいかない。

(六)  そこで前記(四)の精神的損害の賠償につき被控訴人の時効の抗弁の当否を検討する。

(1)  被控訴人は、同人が控訴人を取調べたのは昭和一七年二月末日迄であって、これより二〇年の期間を経過した後である同三七年三月七日本訴を提起したものであるから、控訴人の本訴請求は失当であると主張するけれども、被控訴人の本件不法行為は前認定の如く昭和一七年四月一五日もしくは一六日まで行われたものであって、控訴人がこれより二〇年以内である同三七年三月七日本訴を提起したことは記録上明らかであるから、被控訴人の右抗弁は理由がない。

(2)  被控訴人は、控訴人が被控訴人から取調を受けた昭和一七年に加害者が被控訴人であることを知っていたからこれより三ヵ年を経過した同二〇年中には時効が完成したと主張する。しかし、民法第七二四条にいう「加害者を知りたるとき」とは、権利の上に眠る者を保護しないということに重点がおかれている短期消滅時効制度の趣旨から見て、加害者に対する賠償請求が事実上可能な状況のもとに、その可能な程度にこれを知ったときを意味するものと解するのが相当であるから、被害者が不法行為当時加害者の住所氏名を的確に知らず、しかも当時の状況においてこれに対する賠償請求権を行使することが事実上不可能な場合においては、右状況が止んで後被害者が右加害者の住所氏名を知り、且つその人違いでないことが判明して初めて「加害者を知りたるとき」にあたるものというべきである。これを本件について見るに、控訴人は、本件不法行為により被害を受けた当時、被控訴人が『石塚』なる姓の大泊警察署警部補であること及びその容貌を知ってはいたが、『吉二郎』の名とその住所は知らず、右被疑事件により逮捕されて後は身柄拘束のまま引続き取調、起訴、有罪の裁判及びその執行をそれぞれ受け、同二〇年九月四日頃終戦後の混乱の収まらない状況の中においてようやく釈放されたものであって、右釈放前は勿論釈放後といえども、加害者である被控訴人の所在及び「名」を知ることが困難な状況にあったことは容易に推認できるのみならず、その後調査の末同人の「名」を知ることができるや住所の探さくに努め、同三六年一一月八日頃の札幌法務局人権擁護部の回答により被控訴人の東京へ移転する前の秋田県の住所を知ることが出来たので、これらの手掛りを頼りに、更に調査を重ねて同人の現住所を突きとめ本人に間違いないことを知ったうえ、被控訴人を相手方として翌三七年三月七日本訴を提起したものであるから、控訴人の本訴は加害者たる被控訴人を知ったときから三年以内に提起されたものと認むべきであり、昭和二〇年中消滅時効が完成した旨の被控訴人の抗弁は理由がない。

(七)  そこで控訴人の受けた本件精神上の損害の賠償額につき検討するのに、右賠償額は、前認定にかかる諸般の事情を勘案すると金五万円が相当である。

(八)  よって、被控訴人に対する控訴人の本訴請求は金五万円及びこれに対する訴状送達の翌日である昭和三七年五月八日から支払済まで年五分の割合の遅延損害金の支払を求める限度で認容し、その余の請求は理由がないから棄却すべく、これと異なる原判決は変更することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九六条第九二条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 川添利起 裁判官 荒木大任 長利正己)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例